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 思い出のはやぶさ 懐かしの富士
 

 

■今回のリバイバル運転の構想は3年前から・・・・・



今回のリバイバル列車の構想は実は3年前からありました。はと・しおじ・月光・とき・・・数々の名列車が復活運転する中、良く考えると、殆ど自社完結列車だなあ・・ でも「はやぶさ」「富士」西鹿児島発着なんてやってみたいけど4社跨りだから無理かなあ・・・と思ったのが事の発端です。



その後「西鹿児島」駅が「鹿児島中央」駅に変わると発表された時に、「西駅の名が変わるのならタイミングはその時だ!西鹿児島発着の日本最長距離列車復活で今まで思い出をつくってくれた、お世話になった西駅に恩返しだ!駄目で元々。企画・申請書を出してみよう!」それからは定期列車優先の中でJR九州に何両予備車があるか鉄道ファンの「JR車両ファイル2003」を参考に調べました。鹿カコのカニ24・オハネフ25・オハネ25が各1両いける!

これに熊クマのオハネ25が1両にかつての鹿カコの仲間オロネ25を1両、そうそうロビ−カ−を最初で最後西鹿児島乗り入れさせよう!ってことでオハ24を1両・・・足りない・・・よし遊び心で「なは」のSOLOとDUETが1両ずつあるから特別出演させて向日町以東・日豊線初乗り入れをさせてみよう!

きっと注目の的になるだろうし、方向幕に「特急はやぶさ東京」「特急富士西鹿児島 日豊線経由」が残ってるから問題なし!定期列車も「あさかぜ1・4号」も真っ青の豪華編成だ!あわよくばカツミあたりが2両+なはレガ−トを模型化してくれれば・・」なんて余計なことまで発想が涌きました。HO模型もやってるもんで・・・・。

なは用のDUET・SOLOを連結したのは、現代的でしたが、かえって「二度と見れない組合せ」「最初で最後」にこだわって、遊び心でしたものなんですよ。もちろん食堂車を付けたかったんですが、九州には既にオシ24は廃車されて現存せず、出雲の金帯の予備車も考えましたが、九州の車両で賄いたく、非連結にしました。

仮に出雲のオシを連結したにせよ、水周りでまず保健所がNOを出すのはわかっていましたし、レジの部分に自販機が固定されていましたので最初からあきらめていました。グランドひかりでも厨房は不可でしたので、使用されなくなって久しい出雲用のオシはまず無理だったのです。

なお北斗星のスシは屋根高さのアンバランスだけは絶対にしたくなかったんで、最初から論外でした。食堂車大好き人間の自分にとって一番残念でしたが仕方ありません。じゃあ「かつて車内で配布されたMENUを持ってるからあれをレプリカ版で乗客の方に配ろう!」と保有の記念品を漁りました。


■次は機関車、ヘッドマークをどうしようかな?



機関車は個人的には65Pか66が好きでしたが65Pは高崎の501しかないしイベント用だから下関の66なら保有両数にも余裕があるから66にしよう。ヘッドマ−クははやぶさ単独は下関にあるんでOK!富士は山富士は定期で使ってるから、下関の「赤富士」はどうかなあ・・で一旦赤富士希望で要請を挙げましたが答えはNO。じゃあいっそのこと「丸富士」はということで再度要請を挙げたところJR東日本に丸富士があるとのことでOK。九州はヘッドマ−クはどちらも今は保有していないとのことで当初は日本旅行負担で新製することにしましたが、JR九州の計らいで新製していただくことになりました。



本来団体臨時列車に定期列車のヘッドマ−クをつけること自体「ありえない」ことなのですが、JR各社のご協力の下、取り付けが実現できたことは感謝の一言に尽きます。あともう一つネックがありました。それは先述のなは「SOLO」「DUET」の東海・東日本エリア乗り入れのことです。24系とは言え改造車であれば車両形式は同じでも構造が異なれば管轄の国交省運輸局への届け出、許可が必要なのです。これにはJR九州の方々の多大なるご協力がなければ実現できませんでした。結果的には乗り入れ許可が出ましたがそれまでのプロセスは並々ならぬJR九州の方々のご尽力がありました。


品川駅止まりにした理由は?



また東京サイドを品川としたのは言わずと知れた東京駅の容量の問題からです。品川であれば臨時ホ−ムがあるし、品川運転所は目と鼻の先でしたし首都圏に足の遅いブルトレを入れるには通勤通学に影響の少ない日曜日の乗り入れにすることにした為、2/28(土)西鹿児島発「はやぶさ」2/29(日)品川発「富士」にしました。品川にした以上は少しでも長く・多くの方に写真を撮っていただけるよう、「はやぶさ」到着後30分、「富士」発車30分前入線で要請を挙げたのです。オリジナルグッズもJR九州承認のデザイン会社と詰めました。



終わっても実用的なモノがいいかなと思い、専用のネックストラップをはじめ「はやぶさ」「富士」をなるべく作り分け、最後に専用の手提げ袋まで作ってしまいました。しおりはかつてあさかぜ1号に乗ったときに下関車掌区が作ったしおりを元に両列車の履歴・今回の運転時刻・停車駅・運転停車駅を入れ、鉄道ファン以外の方にもと車両形式の読み方・機関車形式の読み方までいれて表紙も含めデザインは自分で行いました。



グッズの下敷きの裏面は両列車最後の西鹿児島発着の頃の運転時刻・停車駅をかつての時刻表を入手して入れました。それに鹿児島名物といえば焼酎です。地元の酒造会社の協力の下、オリジナルラベルを作り、税務署に届け出、二度とこのラベルを使えないよう封印まで行い、非売品としました。オレンジカ−ドも1種(赤富士)を除き自身がかつて撮影したもの(ポジ)を用いて、作りました。もちろん価値を落とさない為にも販売用は行いませんでした。



今回のご乗車の方々にはヘッドマ−クをプリントした専用の荷札にお一人お一人お名前をPCで印字して、指定券もマルスの85ミリ券を模して作りました。 食事の弁当も全て駅弁業者の駅弁を利用し、掛け紙タイプにしましたが掛け紙のオリジナルはコストがかかるため、ヘッドマ−クを模した乗車記念のシ−ルを作り、それを事前に業者に送付し、当日掛け紙に貼って積み込むようにしました。

 

■そしていよいよ当日が、やってきました。



西鹿児島駅では駅前広場で受付をし、横に「感動をもう一度!」の看板を作り、その後、ホ−ムでの出発セレモニ−に使うよう移動しました。

実はこの日、新幹線つばめの一般試乗会もあり、駅は二つの「鳥」を見に来られた方でごったがえしました。まさにお祭り状態でした。駅改札口上やホ−ム上には「思い出のはやぶさ号 11:50 東京(品川) 6番ホ−ム」のLED発車票を掲出しました。これも西鹿児島副駅長に事前にお願いしたところ、一つ返事でOKをいただきました。



そして11:21「思い出のはやぶさ」入線時にホ−ムで山口百恵の「いい日旅立ち」を流してム−ドを盛り上げました。機回しでヘッドマ−クを見せたED76には多くのファンのカメラが向けられ、一時、線路に下りて写真を撮るなど騒然としました。

私の司会進行の下、西鹿児島駅長より挨拶、主催者側代表(弊社の九州営業本部長で私の福岡支店勤務時代の支店長)挨拶、そして、花束贈呈を今回ご乗車のお客様で、鹿児島県民の方にお願いし最高年齢の方に西鹿児島駅長宛、一人旅最少年齢の小学生に運転士宛に、親子代表で車掌のお一人宛に、ご夫婦代表で車掌のもう一人宛にそれぞれ行いました。そして発車です。西鹿児島駅長の出発合図の下 ED7691号機は高々と長声一発汽笛を鳴らして動き出しました。バックには先程の「いい日旅立ち」のインスト(唄なし)を流しました。これは轍の音をお見送りの方々に聴かせたかったのと、自然と皆さんが口ずさめるようにしたものです。

まさに感動的な入線から発車までの約30分間でした。発車すると私は今回の私の部屋・オロネ25の車掌室で自前で揃えた旧国鉄の車掌の制服に袖を通し、車掌長の腕章をはめ、制帽をかぶり、まずは「ハイケンスのセレナ−デ」のチャイムを鳴らし、車内放送を形式どおりに行いました。それまでいろんな車内放送のCDをマイカ−でかけながら自身練習を重ねたつもりです。時折車窓の案内も織り交ぜ、退屈しないよう配慮したつもりです。



放送後、懐かしの型押しタイプの検札パンチを片手に一人一人、先述の指定券を検札しました。乗客の皆様には好評で懐かしいの声も聞きました。走行中凄かったのは、ED76が運転停車駅、停車駅に拘らず汽笛を鳴らしまくりだったのです。途中門司まで同行してくださったJR九州の輸送担当の方曰く、運行管理部より汽笛大サ−ビスを指示したとの事。嬉しさのあまり、涙があふれてきました。



車内販売も西鹿児島から小倉まで、乗務してくださり、その内、西鹿児島〜熊本間はかつて日本食堂の鹿児島営業所で食堂車勤務をされた方に乗っていただきました。ロビ−カ−のコ−ナ−カウンタ−を有効に使っての車販でした。沿線は撮影の方々で何処もお祭り騒ぎでした、中でも鹿児島本線の名撮影場所の川内市の西方海岸は三脚70本だったそうで、1週間前に10本の場所取りだったそうです。

九州を離れ下関からはJR西日本の車掌と交代です。乗って来られたお二人の内、お一人は「鉄道ジャ−ナル」の「1列車に乗る」の富士で出てらした、下関乗務員センタ−の西村車掌でした。もう一人は上野車掌でお二人とも下り「懐かしの富士」にも乗務していただきました。



車内では超難問のクイズ大会や「一度はやってみたかった!ブルトレ車掌アナウンスコンテスト」を行い、実際に上位3名の方にハイケンスのセレナ−デチャイムつきで放送していただきました。「二度と出来ない」にこだわったイベントだったと思っています。そして品川着。予想通り多くのファンが待っていました。まずは1/3が終わりました。今度はいよいよ下り富士です。


■いよいよ往路の富士です



弊社の本社でグッズの袋詰め作業を終えて一旦東京駅地下の東京ク−アでひと風呂浴びて品川駅にてスタンバイです。今回、富士出発の際には混乱を予想して、弊社のスタッフを15名ほど動員して旅客整理にあたりました。

18:18ほぼ予定どおり9011列車は入線してきました。66に丸富士マ−ク。自身「やった!」と思わずガッツポ−ズ。やはり感激でしたね。そして横には「特急富士西鹿児島 日豊線経由」の方向幕。



さすがに24年ぶりの掲出とあってあの電サボを撮る方々が凄かったですね。
それと往路はやぶさのDUETのテ−ルサインが白だったのですがあれは元々なはでしか運用されていないので最初から他の愛称ははずしていたのです。

しかし富士はオハネフが最後尾になるので白ではまずいとことでJR九州から東日本の品川運転所に、定期列車の到着で入庫中の車両から移植して取り付けるよう指示していただき、事無きを得ているのです。九州の車両同士だったのが幸いしました。



でも品川駅でもっとも感動的だったのは、橋本副駅長による出発合図と「最後の西鹿児島行列車の発車です」の放送でした。当初は出発合図ナシで東日本の本社営業部から聞いていたのですが、現場からの粋な計らいでしてくださったとのこと。このことはあの発車の時に初めて放送で聞きましたので、「寝耳に水」だったんです。お礼とばかりに走り出した列車のオロネの車掌室の窓から副駅長に「ありがとうございました!」と敬礼してお別れ致しました。

 そして今回、一人の方の思いも乗せて私は乗務しました。それは私が鹿児島支店に帰省赴任した99年の10月にある高校の修学旅行の添乗で知り合った引率の先生のことです。

ブル−トレインが大好きだという先生と意気投合してしまい、かつて先生が小学生の頃、はやぶさに乗ったときの音を録音されてて、それをCDにしたものを私はいただきました。

この企画の企画書を作成していた昨年の7月に先生に是非乗っていただこうと先生の自宅に電話をかけますがいつも留守番電話。体調があまりよくないとの話を聞いていましたので、どこか静養に家族で旅行でも行ってらっしゃるのだろうと思っていました。

そして7月も下旬になった頃のある日、もう一度電話をかけました。出られたのは先生の奥さんでした。「主人は昨日亡くなりました。」聞いた瞬間頭の中が真っ白になり言葉が出ませんでした。私が我に返って「そ、それは失礼いたしました。」

そう言って電話を切りました。しばらくは茫然としていましたがいつのまにか涙があふれて止まりませんでした。あの日以来、絶対にこの列車を走らせてみせる!33歳という若さで他界された先生の為にも・・・そう私は自分に言い聞かせました。

 品川駅では東京在住の先生のご両親と妹さんが見送りに来てくださいました。というのも、鹿児島在住の先生の奥さんに「先生の遺影をお借りしたいのです。先生を大好きな西鹿児島発はやぶさと西鹿児島行富士にどうしてもお乗せしたいのでお願いします。」奥さんは涙しながら「喜んでお貸しします。」と当日、西鹿児島駅のホ−ムに遺影を持ってこられました。

遺影拝見したとき、涙があふれてとまりませんでした。品川では「特急富士西鹿児島 日豊線経由」の方向幕をバックに先生のお父様に私のかぶっている帽子をお貸しして胸には先生の遺影を抱いてお母様と私と3人で写真を撮りました。「では先生を無事に西鹿児島までお送り致します」そう言って、品川を後にしました。先生の遺影は往復ともオロネの車掌室に置かせていただき、私を見守ってくださいました。


列車はいよいよラストランに



下りの富士の車内はもうお祭り騒ぎです。ロビ−カ−では早くも持ちこんだ酒類であちこちで宴会が始まっていました。途中深夜の米原駅ではかつての職場の後輩が私達に夜食の差し入れを持ってきてくれました。「多くの人に支えられてこの列車は走ってるんだ。」と感謝の気持ちを噛みしめながら夜食の手作りのサンドイッチを食べる頃にはまた涙があふれてきました。そして途中姫路ぐらいから広島まで、オロネの部屋で仮眠をとりました。朝の山陽路もあちこちで撮影方々を見送り、下関で交代の西村・上野両車掌とのお別れも近づいてきました。今回このお二人にはホントにお世話になりました。「また良ければ是非指名してください」と握手を求められたときはまたしても泣いてしまいました。



 門司からは一昨日牽引したED7691号機に真新しい丸富士のヘッドマ−クが輝いています。これから10時間の日豊線の旅です。大分からは単線になるので幾度と運転停車を繰り返し、宮崎到着です。大淀河畔もたくさんのギャラリ−がお出迎え。そして南宮崎からは24年ぶりの乗り入れとなります。

あのシラス台地の山峡を体をうねらせて走るブル−トレインは外から見送る人々にとってはまさに「懐かしの富士号」だったことでしょう。さらに日も暮れた錦江湾沿いを走る富士のラストスパ−トは感動的でしたね。
最後の停車駅・鹿児島を発車して西鹿児島終着放送は車掌室をロックして、絶対に泣かないよう気合を入れて気丈に案内放送をしました。終わって、チャイムを鳴らし、電源を切った直後、涙があふれて止まりませんでした。そして故郷・西鹿児島駅に到着、扉が開いたと同時「にしかごしまあ〜にしかごしまあ〜にしかごしまあ〜」の伸びやかな懐かしい駅名連呼が乗客を出迎えました。

職場の上司・同僚、そして家族が西鹿児島に出迎えに来ています。従兄弟の子から花束を受け取った瞬間、思わず号泣してしまいました。はやぶさとして1500キロ、そして富士として1600キロの懐かしい道程を完走した客車たちは役目を終え20分後に回送列車として発車しました。最後は機関車の横で敬礼、そして頭を下げ、最敬礼で見送りました。改札口では遅い時間にもかかわらず駅長が出迎えに立っておられ最後に支店長を始め、皆で駅長に御礼を申し上げた直後、「北島、万歳!万歳!万歳!」と駅長が声高らかに万歳三唱をしてくださり、感動のあまりまたしても号泣してしまいました。



3100キロ・47時間の旅はまさに涙なしでは語れないドラマチックな旅でした。

私の夢を買ってくださった、乗客の皆様、悪天候にも拘らず、撮影に奔走された全国のブルトレファンの皆様、陰で支えてくださったJR各社の関連の皆様、そして休日にも拘らずお手伝いしてくださった社員・スタッフの方々、そして3日間の激務に耐えて添乗していただいた、社員の方々に心より厚く御礼申し上げます。 「思い出のはやぶさ号」と「懐かしの富士号」は感動と思い出をいっぱいに詰めこんで、永遠の旅に再び出発していきました!

 ありがとう!はやぶさ!富士!西鹿児島駅!品川駅!私は一生忘れません!

鞄本旅行 鹿児島支店  北島善朗

※肩書等は2004年当時


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思い出のはやぶさ・懐かしの富士 part-1 品川駅編




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